レンタルコンテナのここだけの話

レンタルコンテナのここだけの話

メキシコの密林の中に、ピラミッドが忽然と現れるマヤ文明の遺跡の、あの石のピラミッドを木の建築に代えたような光景。
思い描くだけで涙がにじむ。
空想の翼はちゃんとした本殿の建築が成立する前の姿にも及ぶ。
おそらく、真ん中の柱は、最初は自然に生えたままの樹だったにちがいない。
まず、森の中で神サマの降りて来そうな背が高く姿もいい巨木が依代として選ばれた。
あたりの樹を伐り払って一本だけ目立たせる段階があったにちがいない。
そしてそのうち、神サマが降りて来た時、仮の宿を作って差し上げよう、ということになった。
地域の族長もしくは巫女が、樹の上に登って神サマの声を開いたり、交わったりする場という性格もあったかもしれない。
とにかく、巨木の途中の枝を払い、上の方に残した枝を土台として鳥の巣のように樹上建築がつくられた。
幹のてっぺんは、屋根の上にちょっと顔を出すのが好ましい。
しかし、やがてその樹は枯れ、近所の別の巨樹に移るのだが(式年造営の起源)、そのうち適切なのがなくなり、枯れてしまった巨樹を不変の依代として固定することになり、屋根から突き出る幹は途中で切り、土台としての枝を捨て、代わりに下から突っかい棒のように柱を立てる。
そんな太古の光景が、発掘現場に立って本殿と周囲の森を眺めていると、重なるように叩浮かんでくるのだった。
巨木を頼って住まいが生まれた(大黒柱〉雨が降れば濡れる。
日が照れば暑い。
猿から進化してそうとうたってから、人間はその不便に気づき、雨と日射しを避けるため屋根というものを発明した。
さらにだいぶたってから、屋根を自分の背の丈より高い位置に支えるため柱と壁を工夫し、建物の原型が誕生する。
原始人は柱には苦労したにちがいない、と信州の山村の少年は確信していた。
中学生の頃、原始人の真似をしたくなり、本で見た図にならって小さな石の斧、正確にはグラインダーで磨いた新石器を作り、庭先の若木に立ち向ってみたのだが、切れないこと切れないこと、樹皮としらた(丸太の周辺の白く柔らかい層)がささくれ立つばかりで、赤身(芯の硬い層)にはいっかな届かない。
御先祖棟たちは本当に石の斧で丸太を伐り出すなんて芸当が出来たんだろうかと疑わざるをえなかった。
しかし大人になってから、しかるべき本によって、立木用の石斧はうんと重いのを使い、斜めにではなく水平に近く力いっぱい打ち込むのが正しく、そうすれば鉄の斧の二十五パーセントていどの能率が可能になるなどと知った。
石の斧でも二日もあれば、家に最低必要な四本の柱を得ることができる勘定だが、私としてはせめて一週間はかかってほしい。
出来たら村の原始人総出で一日たっぷり。
でないと、子供の頃の体験が意味をなくすし、だいいち以下の文への続き具合がしっくりいかな。
手軽に柱が得られたとはとても思えないような深い意味が、日本の木の柱には込められているからである。
たとえば、伊豆の韮山の江川太郎左衛門家の柱はどうだ。
伊豆代官を一五九六年以来二百六十年余にわたり務めた江川家に入ると、まず広大な土間に目をうばわれる。
何百年も人の足、おそらく裸足によって踏み固められた土の面は小さく凹凸を繰り返し、湿りを帯びて濡れたように光り、戸口近くの明るいところには緑の粉をまいたようにうすくコケが生えている。
目を上げると、天井はなく、ススけた黒い丸太梁が走り、その向うには屋根裏の閥がわだかまる。
地を見つめ、天をながめた後、この黒々とした大空間を一人で支えている柱の存在に気づく。
抱えれば二抱えほど。
表面を鉄の斧で粗く削っただけの丸太が土中から立ち上がり、中ほどには注連縄が張られているほったてばしらふつう柱は礎石の上に置かれるが、こいつはちがう。
地ベタから直の掘立柱。
もし自分がこの柱だったら、毎日どんな気分だろうか。
靴も履かず、裸足の足を土の中に突っ込んで、背筋を伸ばし、重い屋根をしっかり支える。
動くと危ない、屋根が崩れる。
梅雨時はつらい、土に埋った足がふやけ、白癖菌がはびこりそうだ。
夏はいい、足からの涼しさが体の中を上昇してゆく。
このように足を埋めたまま微動もせずに三百五十年以上も春夏秋冬を繰り返していると、百年を過ぎた頃から奇妙な気分が湧いてくる。
力を込めて踏んばる感覚が足の裏からいつしか消え、なんだか足と土の区別が付かなくなったような、わが身は埋っているのではなくて実は生えているんじゃないか、と。
江川太郎左衛門家の土間の柱は、普通の掘立柱ではなく立木をそのまま柱に見立てて使っていると伝えられている。
山から伐り出し人のために立てたのではなく、筋の通った巨木を頼って人の住まいが生れた。
人の方が木に寄生して。
土間の暗い大空間に立つ丸太柱を前にすると、現代人でもこの伝えは本当と思えるし、昔の村人が、柱の上の暗い辺に精霊(カミサマ)を見たとしてもおかしくない。
家の中心の柱が立木につながり、立木にカミサマが宿る、という感覚はいつから始まったんだろうか。
キリもなく遠い昔からの可能性がある。
伊勢神宮の正殿の床下の中心位置には槍の掘立柱が一本隠されているし、出雲大社の場合、すでに述べたように中心の柱は床下にとどまらず床を突き抜けて天井位置(天井は張られていないが)にいたって止る。
床下、天井位置の差はあるが、柱が中途で止っているのは奇妙なことで、建物が作られる以前からそこに立っていたことを語る。
おそらく、カミの宿る立木か、カミをおろしてきて宿らせる柱か、そういう聖なる柱の名残にちがいない。
伊勢にせよ出雲にせよ、現在、参詣客がありがたがってかしわ手をうつ高床式の立派な建物は、本当は聖なる木の柱を風雨から守る雨傘のようなものにすぎない。
諏訪大社で六年に一度行なわれる御柱の祭も、一本じゃなくて四本立てるところに解釈の分かれる余地はあるが、柱が聖性を帯びる点は伊勢、出雲とそうちがわない。
そんな山や川や木や石にカミがいると信じていた頃の柱の話を引き合いに出すのは、そうした数千年前の御先祖様の心の習性がその後長く日本の建築の中にそこはかとなく生き続けていると考えられるからだ。
たとえば田舎の草葺きの民家や京の町家の土間に立つ大黒柱はどうだろう。
江川家のように注連縄を張るわけではないが、名前はいちおうカミサマで、目立つ位置に立ち、他の柱より太くて堅い棒などが使われる。
家に大黒柱があるように部屋には床柱が立つ。
大黒柱と床柱は似ていて、二本は立てないし、名のある樹種の素木が使われる。
床柱のそばの床梶に漆を塗っても床柱はかならず素木のまま。
時には樹皮をむいただけの丸太に近いものを立てたりする。
塗りという技法は仏教建築とともに導入されたもので、日本列島ネイティブではない。
一本を大事にし、素木にかぎる、こうした今でも生きている柱へのセンスの源をたどってゆくと、江川家をへて弥生の高床式形式の伊勢、出雲へとつながり、さらにその先はどこまで行くのか、もしかしたら縄文に届くのかもしれない。
起源の件は別にしても、世界の建物の歴史の上で日本の柱というのはきわめて珍しい存在なのはまちがいない。
日本のほかに今でも木造の家に住む伝統がいちおう生きている地域は、イギリス、アルプス以北、北アメリカ、東アジア、東南アジアなど意外に広いけれど、こと柱の扱いを見ると日本とはちがう。
木造だから柱を立てて梁を架けるのは同じだが、多くの場合、柱は壁体の一部でしかない。
独立柱のある場合でも、たまたまそこに支柱が必要だからあるだけで、格別のものとして立てられているわけではない。

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